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万不草堂

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2010年 07月 28日

学術の衰退が意味すること,研究の維持のために

27日にニュースで伝えられたように,概算要求については先週来の報道のように閣議決定されたようです。これから「特別枠」の獲得をめぐって,各省庁が対策を立てることになるのでしょう。「特別枠」は,日本の(経済)成長と関わるものなので,応用・産業化に直結するような予算がふさわしいと考えられ,大学運営費のような経常的な経費はそぐわないと見られます。国家戦略として推進されているような大型プロジェクトは,元々成長につながるという目的で考えられたものだったはずですから,正に「特別枠」に合致していると言えるでしょう。ここで希望したいのは,運営費交付金のような経常的な予算については削減率をできるだけ抑え,上記のような大型プロジェクトを「仕分け」結果に基づいて一旦削減し,改めて論拠を立て直して「特別枠」として申請することです。恐らくそれが,今回の最適解だろうと思います。「特別枠」には,人材育成も含まれているようなので,大学教育の中でプロジェクト的色彩の強いもの(GPなど)を含めてもよいかも知れません。結局,政府・財務省の方針は固まった訳ですから,これからはむしろ文科省内の予算配分をめぐって働きかけが必要になるということかも知れません。

コメントで教えていただきましたが,国大協東京地区支部が声名を出しました。(7.26)
平成23年度概算要求基準における大学予算について(声明)―「元気な日本の復活」を導く「強い大学」づくりを―
東京海洋大学も声名を出しました。(7.27)
-海洋立国日本の高等教育機関としての役割を果たすために-

全国の動向調査はしばらくお待ち下さい。

さて,先のことを考えると,問題は今回のような削減+特別枠という方針が来年度以降も続くのかということです。当初国大協が示したように数%~十数%の削減が毎年重なるとすると,現在の国立大学の運営方式は次々年度には崩壊するでしょう。前回書いたように,教育研究経費が削られる一方学費が値上がりし,退職教員はほぼ例外なく不補充,現職教員は業務負担の増加(=研究時間の更なる減少)に反して給与も下げられていくでしょう。こうした状況を見れば,大学院への進学者はますます減るはずなので,学術衰退の負のスパイラルが一気に加速することになります。

私が理解できないのは,こうした状況が到来することが火を見るより明らかなのに,なぜ政策立案者はこうした方針を採用するのだろうか,ということです。近代以来の歴史の中で,国家が自立するということには色々な側面がありましたが,その内の一つが学術的な自立であり,すなわち国内で学術再生産のプロセスが回るようにすることです。先進国から学者をたいへんな高給で招聘して高等教育を担当してもらい,学生を先進国に留学させるのが最初です。それから,そうした留学生が帰国して,大学で教えるようになります。その次は,それら留学帰りの学者に教育された学生が,自国の大学で養成されるようになります。最後に,自国の大学・大学院を卒業した人が自国の大学に職を得て教育研究に従事するようになります。これで,いわば学術の自給が一通りできあがることになります。(もっとも,外国との研究交流や,最先端の研究成果・理論の輸入は当然続きます。また,学位の国際通用性,すなわち国内の研究成果の輸出も必要です)

学術の自給状態とは,こうして再生産プロセスが出来上がることのみならず,国内で研究コミュニティーがある程度の規模を持ち,まとまったものになるということでもあります。すなわち,自国語で議論し,論文を書くことが可能であり,学術的な意味を持つということです。このためには,様々な学術用語が自国語に翻訳されている必要もあります。日本は世界有数の翻訳大国だと言えるでしょうが,外国語で書かれた研究を自国語で読めるようにするというのも,こうした研究コミュニティーの形成において要請されることです。こうして考えてみますと,日本は古くは中国の学問を訓読という独特の方法によって日本化して吸収(改変)し,新しくは西洋の学問を翻訳して吸収してきたと言えます。この事業に費やされた先人の時間と労苦は想像を絶するものがあります。

学術の衰退を選択するということの背後には,こうした長い歴史を持った営みを「コスト」と考える発想があるのだろうと思います。たいへんな高給で先進国の学者を招聘すると書きましたが,その一時的な招聘費用と,国内で研究者を養成し,研究者に職を与え,長く給与を支払うことと,総合した場合どちらがコストがかかるでしょう。翻訳にかかる労力も大変なものなので,その労力があれば他の仕事をしてもらった方が良いのではないか。自前で学者を育て研究させるのではなく,必要な時は海外から「買って」来て,成果を落としてもらえばよいのではないか。財政の緊迫の中で,長期的な効用を考えることのないこうした発想が現在強まっているのではないでしょうか。

しかしこうした発想は,長いスパンで考えれば日本の歴史の中で蓄積されてきた遺産を否定するものです。現在でも研究者は国民の側を向いていないと思われているかも知れませんが,日本語を研究上の言語として使う人が少なくなれば,さらに学術は社会から隔絶されることになります。言ってみれば「知の植民地化」がもたらされるのかも知れません。そしてそれは,恐らく日本の歴史でかつてなかったことなのだと思います。

民主党のマニフェストには高校無償化があり,最近ではクラス規模の縮小,電子教科書の計画などが話題にのぼっているようですが,反面高等教育・科学技術に関する政策は乏しいようです。この状況を見ると,民主党は初中等教育を充実させて,かつて日本が誇っていたような,「勤勉な労働者」の育成に力を入れたいのだろうか,と思わされます。そうして製造業によって高度成長を遂げた戦後日本を再演したいのでしょうか。しかし少子化によって人口構成が大きく変動している訳ですから,もはやその道は閉ざされているように思われます。むしろ,単に敗戦後の貧しさに戻るだけのような気がします。経済的地位の衰退によって為替レートが下がり,賃金が下がり,輸出産業の競争力が回復し,他国の消費に貢献する。他方,外国に都合のよい理論が学界で唱えられ,それを国民が理解しないうちに,政策に取り入れられていく,という近未来を想像します。以上は大変大雑把な議論で,大げさに思われるかも知れませんが,学術の衰退というのは,日本という国が自立性を失っていくことの一環です。

ただ,このように書くと,「学術が社会に必要なことはともかく,それでも現在の大学の数は多すぎるのでは?」という意見も出されるでしょう。これに対しては,教育と研究は別だ,ということを述べたいと思います。教育は確かに学生数によって規模が定まる面があるため,少子化が進めば規模の拡大は考えにくいと思われます。他方,国内で少子化が進もうが進むまいが,世界の学術はそれとは関係なく拡大発展します。研究を大学が主に担う状況では,少子化が進んで大学が縮小すると,研究も同様に縮小することになってしまいます。しかし研究は基本的に拡大するものですから,結局日本の研究面での地位は下がることになります。こうした事態を防ぐためには,研究面で後れを取らないために,大学の規模とは別に,どれだけの研究者集団を確保すべきか,という議論が必要です。一部の大学教員を,少子化で必要性が減じた教育から解放して専ら研究に従事させるという発想もあって然るべきなのです。しかしこうした議論はこれまであまりなされてこなかったように思います。一部の研究所を除いて,研究者=教育者という前提で考えてきたからです。研究者の多くは教育者として給料をもらって生きています(俸給表にも「教育職」と書いてある)。そのため,研究者の側も,研究は単に「自分のやりたいこと」であり,それによって生活しているという意識を持ちにくい面があったでしょう。研究は趣味であり教育は義務であるという暗黙の合意が,研究者と社会の間にあったでしょう。また,税金を使って研究が行われている以上,利益を上げるべきではないという考え方もあるでしょう。少子化によって,大学で教育を担当することによって生計を立てるという,研究者の一種の「ビジネスモデル」が縮小を余儀なくされるわけですから,大学数の増減に左右されず研究をどうやって維持するか,国家としてどれくらいの規模の研究者を確保すべきなのか,ということについて考える必要がある時期になっていると思います。

by bamboo_hermitage | 2010-07-28 04:19 | 大学


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